囚われの旋律
平日昼間のバスの乗客は子供連れの主婦やご年配の方がほとんどで、私のようにスーツを着た女性はめったに見ない。
でもスーツといえば、リクルートスーツの学生たちならある時期になるとよく目にする。仕事でスーツを着ている人間と就活でスーツを着ている人間とでは、くたびれ具合がだいぶ違うけど、稀に見ているこっちの胃が痛くなるくらいにくたびれた悲壮な面持ちの子もいる。
話しを戻して、職業柄、車よりもバスの方をよく使うから時々同じような格好の人を見ると商売敵かと思ってジロジロみる癖がある。それが自分より可愛い子なら尚更。
私が属する零細企業は、男なら口八丁・女なら見た目がモノを言う時代錯誤もいいところの営業職なのだ。
その日は乗車してすぐ、久しく目にしていない懐かしい銀髪が目に止まった。
「あ、夜天君だ」
しまった、と思った時にはすでに声に出ていた。
窓の外を眺めていた夜天君がこっちを見たけど、私は大げさに俯き、その視線から逃れた。
芸能人とかそういうものにあまり興味がない私が、唯一少しだけ気に入っていたグループが夜天君のいた三人グループのスリーライツだった。
だから、少しだけ好きだった芸能人のプライベートに遭遇して変に気を使わせたくなかったし、白い目で見られるのも嫌だったし、ともかく一瞬にして様々な感情が湧きあがってきて、心はざわざわ煩かった。
早く夜天君の視界に入らないところに行こうと、彼からは見えない後ろの席に座ってみる。
けど今度は、後ろからジロジロ見たいがためにわざと自分の後ろに座った、なんて思われたらどうしようとか考えはじめて、口は悪い癖に根は臆病にできている自分に、内心大きくため息を吐いた。
バスを降りる考えもよぎったが、そんな時間があるなら、早めに待ち合わせ場所に行きたい。今のまま向かえば商談相手よりも早く着くだろうし、コーヒーの一杯でも飲んでいたい。
――ひとまず、視界の中心にいる夜天君の事は忘れるとして、目を通しておくべき書類を確認しよう。
私は、膝の上に乗せたビジネスバッグから諸々の書類を取り出したが、やっぱり夜天君が気になって仕方がない。
彼らは本当に、急に姿を消したのだ。
まず気がついたら、毎日のようにどこからか聞こえていた彼らの歌声が聞こえなくなった。
街を歩けば誰かが噂していた『スリーライツ』の話題ですらピタリとやんだ。
スリーライツの話題はともかく、彼らの歌が聞こえなくなったのは残念だった。
音楽はダウンロード派の自分にしては珍しく、何万円もするコンプリートアルバムBOXも買った。
高かったけど、それは悲しいときや辛いとき感傷的な気持ちになったときの良い友となった。
悲しいことに、気がついたら手元から消えてしまっていたことは触れないでおきたい事実だけど、多分部屋を掃除してちゃんと探したら見つかる。
私のスリーライツに対するモノはそれぐらい小さいモノで、ライブを観に行くほどのファンではなかった。だから、消えた後の彼らがどうなったか調べるほどの興味はなかったし、人の移ろいは残酷なものだと結論づけて、私の中のスリーライツも姿を消した。
それからすぐに巷では名も知らぬアイドルがブームになって消え去っていった。
街を支配する曲は短い周期で変化していく、それが当たり前なのだ。
手元の資料がくしゃっとよれていた事に気が付いて慌てて皺を伸ばした。
夜天君の事は考えないようにと思っていた矢先、一瞬にして物想いに耽ってしまった自分が恥ずかしい。
そうこうしているうちに、降りるべきバス停も間近になった。
ブザーを鳴らして、資料をバッグに仕舞いこむ。
ジャケットのポケットに入れてあるICカードを手にしながら、もう二度と会う事もないであろう夜天君の姿を目に焼き付ける。
窓から射し込む陽の光にキラキラと輝くうつくしい髪、男の人なのに私なんかよりずっと華奢な身体のライン。
まるでこの世のモノじゃないみたいに綺麗で、儚くて、後ろ姿だけでも切ない気持ちになる。
――おそらく私は、私が思っていた以上に彼の事が好きだったのかも。
バスが止まる。
名残惜しいけど、これでお別れだ。
席を立ち、彼の横を通るすれ違いざまにこっそり横顔を盗み見た。
そのまま何事もなく通り過ぎるつもりだったのに、突然、夜天君の顔が私を向き、私達の視線が合わさる。
「夜天君……」
無意識に出た言葉に、夜天君は口元を緩めると席を立ち上がった。
「ここで降りるの?」
「あ、はい」
「そう。じゃあ行こう」
「え、うん、はい」
何故か一緒に降りる事になってしまった状況に軽くパニックになりつつも、運転手さんや他の乗客達の冷たい視線を感じて慌ててバスを降り、少し横にズレた所で立った。
夜天君はこんなときにもマイペースで、お札を崩しお金を払うと何事もなかったかのようにステップを降りてきた。
――本当に降りて来ちゃった。
バスは、夜天君を下ろすと早々に扉を閉めて発進してしまった。
これで夜天君は戻れない。
次のバスまでどれくらい待つのだろう。ド田舎じゃないからすぐに来ると思うけど。
そもそも、どこかへ向かっている最中だったのではないか。
湧き上がる疑問をぶつけることもできずに、夜天君の一挙一動をただ見つめる。
「で、どこ行くの?」
すました顔をしている夜天君が尋ねた。
「近くのカフェで待ち合わせしているので、とりあえずそこに向かおうかと」
「一緒に行く」
「はい?」
「送るって言ってるの」
「ありがとうございます……?」
これはもしかしてドッキリだろうか。
辺りを見渡してみてもカメラらしきものは見当たらない。
もしくは夜天君が身一つで突撃する番組?
横に並んで歩く彼を観察しても、やっぱりカメラは見当たらない。
「さっきから挙動不審だけど、なに?」
――いや何ってあなた、どうみてもおかしいでしょコレ。
さも当たり前かのように私の横に並んでいるけど、普通じゃあり得ないからね。
「あの夜天君、これってドッキリだったりしますかね。突撃スリーライツ!的な……」
「そんなわけないでしょ。僕ら解散してるし、そもそも地球の人間が僕らの事を覚えているなんてあり得ないんだよ」
「はあ」
夜天君って電波系だったんだ。
いや、私が知らないだけでスリーライツは宇宙から来たアイドルって設定があったのかもしれない。厳しい芸能界でよく分からないキャラ付けをするのはありふれた話しだ。
もったいない、スリーライツはそんな事をしなくても売れていたと思うのに。
三人の歌声は、最近のアイドルにしては迫りくるものがあった。それこそアイドルというよりアーティストの方が正しい気がするくらい。
それ以降、特に会話を交わす事も無く私と夜天君は歩いた。
ときどき、すれ違う人を避けるために半歩だけ身体を寄せて近づいたり、すぐに離れたりしたけどそれだけだった。
カフェはもうすぐ目の前に差し掛かっていて、後は横断歩道を渡るだけだ。
タイミング悪く信号が赤に変わったので、歩行者ボタンを押して彼の横に並ぶ。
「私、信号を渡ったとこのカフェに行くので。ここまで送ってくれてありがとうございます」
「ねぇ、終わるまで待っていたら迷惑かな」
「え、」
思わず横を向くと、夜天君は一歩私に近づいた。
「聞きたい事があるんだ」
「私に?」
「君しかいないでしょ」
信号が変わった。
行き交っていた車が止まって列をなしている。
渡らなきゃと思ったけど、顔を逸らすことができない。身体も足から根っこが生えたみたいに動かない。
「ねぇ、僕らの事知ってる?」
「そりゃあ、もちろん」
今更、何を当たり前の事を。
「じゃあどうしてだろう、今まですれ違った人は誰一人として僕に声をかけなかった」
「それは」
歩いてきた道のりを思い返す。
バスを降りてから、ド田舎じゃないから次もすぐ来るだろうって思ったのは誰だ。
この時間だから学生こそ見かけなかったものの、歩いている人は普通にいたし、私もぶつからないように避けて歩いていた。
その人達が、夜天君を見逃すはずがある?あるはずない。
たとえスリーライツのファンでなかったとしても顔くらいは知っているだろうし、不躾な視線を投げる人がいておかしくないはず。
そこでふと、二人で歩き出した時の会話を思い出した。
地球の人間が僕らの事を覚えているなんてあり得ない、確かにそう言っていた。
理解が追いつかないけど、夜天君の言っていた事がもし本当に言葉の通りならば。
おそるおそる夜天君の顔を見た。
夜天君は今までに見たことがない、まるで恋人に見せるかのような優しい目で私を見ていた。
「名前」
彼が知っているはずのない私の名前を、なんの違和感もなく口にする。
ぎゅっと疼く胸の奥。
それはバスの中で夜天君の後ろ姿を見た時の感じとは全然違っていて、溢れそうになる涙を必死で抑えた。
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